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『筆まめVer.28限定』スペシャル年賀状デザイン “日本三大友禅” とは?

[第5回]
“東京手描友禅” はどのようにして伝わり、広まったのか?

2017年9月発売の『筆まめVer.28』は、「日本三大友禅」の絵柄をデザインに取り入れたスペシャル年賀状が使えるのが特徴。これまで京都、金沢を訪れ、京友禅と加賀友禅の成り立ちや特徴、制作の様子などについてレポートしてきた。日本三大友禅のルーツを探る旅の最後は東京。今回は「東京手描友禅」の作家であり、東京都工芸染色協同組合の理事を務める岩間奨さんの工房へお邪魔し、東京手描友禅の歴史や現状、そして作品の魅力についてお話を伺った。

時代の流れに乗って変化し続ける東京手描友禅

東京手描友禅はどのようにして生まれ、育っていったのか。「江戸時代に大名が参勤交代の時にお抱えの染師や絵師を京から江戸に連れて来たことで、友禅染の技法が伝わったんです。友禅染には水が不可欠なため、神田から神田川沿いに高田馬場、中野へと広がっていきました。僕の8代上の師匠が、江戸時代の終わりに京都の絵師から直接友禅染の技法を学んだと聞いています」と岩間さん。

岩間さんの5代ほど上までは、友禅染の技術は世襲で子や孫へと伝えられたが、明治時代に入ると、需要の拡大とともに外部から弟子をとるようになったという。「当時ドイツから色鮮やかで扱いも楽な化学染料が入ってきました。東京が日本のファッションの中心地になっていたことも上手くかみ合って、友禅染の需要が広がったんですよね。」
それを後押ししたのが三越などの呉服店(のちの百貨店)だ。「呉服店が職人さんを抱えて、染めの工場なども運営していました。商品の企画や、作り手とお客さんを繋ぐ役割も果たしてくれたんです。」

関東大震災や第二次世界大戦の空襲で東京は大きな打撃を受けて一時需要は縮小したが、戦後の高度経済成長の流れに乗って、着物がよく売れるように。生産性の向上のため、「下絵」「糊置き」「友禅挿し」などの工程ごとに分業で制作することが多くなった。

歯切れのよい口調で友禅染への思いを熱く語ってくださった岩間さん。

現在は一人の作家が多くの工程、幅広い作品を手掛ける

こうして江戸時代に京都から伝わり、明治時代に広がりをみせた友禅染。高度経済成長期の昭和30年代から50年代の後半にかけてが、需要の最盛期だった。「当時は高田馬場で石を投げれば模様師に当たるといわれました」と岩間さんは笑う。一時は分業制が主流となったが、オイルショックにより日本の景気が低迷。友禅染の工房が縮小されていった。そして、規模の縮小とともに一人の作家が多くの工程を一貫して行うことが多くなっていった。

1980(昭和55)年には「東京手描友禅」が伝統的工芸品に指定された。当時、東京都工芸染色協同組合には500名近くの友禅作家が登録されていたが、現在は49名に。昔は呉服店が担当していたような役割を現在「悉皆(しっかい)業」と呼ばれる業者が担い、問屋から注文を受けた仕事を作家に割り振っている。「『古典なら○○さんに』などというふうにね。作品のプロデュースもやってくれます。」
京友禅や加賀友禅では同じような立場の人はいるのだろうか。「京都では『染匠(せんしょう)』と呼ばれる人がそれにあたりますね。金沢では問屋さんが作家の管理をすることが多いですね。」

さて、東京手描友禅の作品の特徴はどのようなものがあるのだろうか。「昔はわびさびや江戸の粋が特徴といわれていました。『江戸解文様(えどときもんよう)』という風景の模様は東京手描友禅らしいかもしれませんね。『疋田(ひった)』といって、糊の置き方で鹿の子絞りのような模様を描く技法も多く使われます。でも、今は三大友禅の差は少なくなっていますね。」
岩間さん自身、さまざまな需要に合わせて幅広い作品を制作するという。岩間さんの工房での作業の様子は次回詳しくお伝えしたい。

生駒暉夫さんによる「雪景色」。東京手描友禅にはこのようなモダンな作品も多い。

文/クエストルーム

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